27代・安閑天皇


二七代/安閑(あんかん)天皇陵
和風諡号/廣國押建金日天皇  ひろくにおしたけかなひのすめらみこと
在位年/西暦五三一〜五三五
陵形/前方後円
皇居/勾金橋宮(奈良県橿原市)

所在地 古市高屋丘陵 大阪府羽曳野市古市5丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「古市」から徒歩約九分

この御陵は、室町時代後半に畠山氏の居城である高屋城の本丸がおかれていた。そのため、元々の御陵の形と現在の形では、大きく変わっている。Googleの空撮写真を見ると北側の方墳部分が削られているようだ。合葬者として継体天皇皇女・神前皇女の墓に治定されている。

安閑天皇(あんかんてんのう)は、日本の第27代天皇(在位:531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉 - 536年1月25日?〈安閑天皇2年12月17日〉)
継体天皇の長子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ、尾張連草香女)。
皇后:春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
妃:紗手媛(さてひめ。許勢男人大臣の女)
妃:香香有媛(かかりひめ。紗手媛の妹)
妃:宅媛(やかひめ。物部木蓮子大連の女)
記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』によれば子に豊彦王(とよひこのみこ)がいるという。しかしこの豊彦王については他に史料が見当たっておらず所拠不明である。

513年に立太子され、48歳で皇太子となる。
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。『古事記』では乙卯年(535年)3月13日に崩じたとされる。
安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。
なお、『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。このことから、継体天皇の崩御後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。
後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。

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