28代・宣化天皇
二八代/宣化(せんか)天皇陵
和風諡号/武小廣國押盾尊天皇 たけをひろくにおしたてのすめらみこと
在位年/西暦五三五一〜五三九
陵形/前方後円
皇居/檜隈廬入野宮(奈良県高市群明日香村)
所在地 身狹桃花鳥坂上陵 奈良県橿原市鳥屋町
最寄駅 近鉄南大阪線「橿原神宮前」より徒歩約一八分
宣化天皇は第二六代継体(けいたい)天皇の第2皇子で、二九代欽明(きんめい)天皇の兄にあたる。この御陵には天皇だけではなく、先立った皇后の橘皇女と孺子(じゅし)といわれる宮中に仕えた童も
合葬されたと治定されている。「日本書紀」には、新羅が任那を侵略したので大伴狭手彦を遣わし任那を助け、百済を救ったと書かれている。
宣化天皇(せんかてんのう)は、日本の第28代天皇(在位:536年1月?〈安閑天皇2年12月〉 - 539年3月15日?〈宣化天皇4年2月10日〉)。
継体天皇の第二子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ、尾張連草香女)。安閑天皇の同母弟。欽明天皇の異母兄。
先代の安閑天皇が崩御したとき、子どもがなかったために同母弟の宣化天皇が69歳にして即位した。筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年(536年)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。即位3年(539年)に崩御した。
また、安閑・宣化朝は父継体天皇崩御後すぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる。
高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、目立った事績はない。人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている。
5月の詔で食に関することを述べているのは、世界的に引き起こされた536年の火山噴火による寒冷化(火山の冬)の影響に言及したものではないかと考えられている。
火山の冬
536 年の火山の冬は、過去 2,000 年間で北半球で最も深刻かつ長期にわたる寒冷化の時期。 火山の冬は、少なくとも 3 回の同時発生によるものですが、その原因は不明で、さまざまな大陸で複数の場所が想定されています。現代の研究では、西暦 536年初頭 (またはおそらく 535 年後半) の噴火により大量の硫酸エアロゾルが大気中に放出され、地球の表面に届く太陽放射が減少し、数年間にわたって大気が寒冷化したと結論付けられています。536年3月、コンスタンティノープルでは空が暗くなり、気温が低下し始めました。
536 年の夏の気温は、ヨーロッパの平年より 2.5°Cも下がりました。 536 年の火山の冬の余韻は、539年から540年にかけてさらに強まり、別の火山噴火により、ヨーロッパの夏の気温が平年より 2.7°Cも低下しました。547年にはさらに別の火山噴火があったという証拠があり、これが寒冷期を延長したと考えられます。この火山噴火は農作物の不作を引き起こし、ユスティニアヌス帝の疫病、飢饉、数百万人の死を伴い、536年から560年まで続いた後期古代小氷期の始まりとなりました。
歴史家マイケル・マコーミックは、536年を「人生最悪の年ではないにしても、人生最悪の時期の始まり」と呼んでいます。
後裔氏族
多治比氏(たじひうじ)
宣化天皇の三世孫多治比王を祖とする。丹治比・丹治・丹比など様々に書かれていたが本来の書き方は多治比だったという。 河内国多比郡を根拠地とする。姓はもと君のちに真人。
始祖の多治比王(多治比古王または武彦王とも)の子嶋は697年(73歳)に臣下最高位の左大臣となるなど大臣職を長く務め、当時政界の「最長老」であった。嶋の子らからは第1子池守が大納言、ほか県守と廣成も中納言となった。しかし757年の橘奈良麻呂の乱で犢養(こうしかい)や國人といった一族が加担して処罰されたうえ、藤原種継暗殺者として濱人が処刑された事もあり、平安時代以降官界では奮わなくなった。嶋の玄孫にあたる真宗は、桓武天皇との間に桓武平氏の祖とされる葛原親王を儲けた。
大膳職史生岡田家 関東の武士集団武蔵七党の一つ、秩父の丹党が多治比氏の後裔と称していた(大田原氏、大関氏、青木氏等は丹党を出自とし大名として江戸期まで存続した)。同じく武蔵七党の一つ私市党の中にも丹治比氏の後裔を名乗る者がいた(上記の貞成の子に峯成と貞峯の兄弟あり、兄の峯成は私市党の祖となり、弟の貞峯は丹党の祖となったという)。