29代・欽明天皇


二九代/欽明 (きんめい)天皇陵
和風諡号/天國排開廣庭天皇 あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと
在位年/西暦五三九〜五七一
陵形/前方後円
皇居/磯城島金刺宮(奈良県桜井市)

所在地 檜隈坂合陵 奈良県高市郡明日香村大字平田
最寄駅 近鉄吉野線「飛鳥」より徒歩約七分

仏教の受け入れを巡って、とりあえず蘇我稲目の仏教礼拝を許した天皇でしられている。墳丘は前方部を真西に向けた前方後円墳、全長約一四〇m 後円部径七二mで、明日香村内では最大の御陵。現在は水を湛えた周濠があるが、これは「文久の修復」で改築されたものであり元は田畑だったらしい。なお、この修復の際に双円墳から前方後円墳に改造されたとする考えもある。

欽明天皇(きんめいてんのう)は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年5月24日〈欽明天皇32年4月15日〉)。
和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
継体天皇の嫡男、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)
父親の継体天皇は第15代とされる応神天皇から分かれ地方に土着した傍系の出自であった。継体は大王位を継承するに際し、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れている。継体天皇は即位までの妃との間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた。宣化天皇が崩御した時に、広庭は先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を次の大王として推薦したが、彼女は辞退して広庭を推薦し、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した(欽明天皇)。欽明は応神の男系血統と、仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、現皇統へと続く祖となった。
大王が皇女を大后(皇后)に立てるという流れは、欽明が即位するまでに大王となった庶兄の宣化天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を大后に迎え入れ、さらに欽明自身も石姫皇女を大后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。

大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間にもうけた用明天皇以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年皇位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる。ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった。
「日本書紀」によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御したのちに即位したとされているが、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。
宣化の娘で欽明の正妃である石姫皇女は、欽明即位以前から正妃となっているため、恐らく継体期から安閑・宣化→欽明と継承されることは確定しており、継体期から欽明期の混乱は、「安閑・宣化対欽明」ではなく、物部麁鹿火の妻の発言に窺えるように、「大伴氏対物部氏」が元にあったと考えられ、また、中立かつ葛城氏の地位を継ぐ蘇我氏はその争いの最中に台頭できたとする説も存在する。

百済の聖明王とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇[注 1]は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する[注 2]。同年高句麗にも軍を送っている。「三国史記」では554年に似た記述が存在する。なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が「日本書紀」にある。
欽明と蘇我氏は、伽耶諸国に対する軍事外交権を百済に委任する代わりに大陸の文物の献上を約束させ、それによって権力を強化しようとした。欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら崩御したという。第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に薨去していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来したのが日本への本格的な仏教伝来とされる。欽明天皇は仏教の可否について群臣に問うた時、神道勢力である物部尾輿と中臣鎌子らは反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じているので日本もそうするべきだと主張し仏教への帰依を表明したため、欽明天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだが、その後に疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだとして寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。この宗教対立は子(物部守屋と蘇我馬子)の代にも収まらず、用明天皇の後継者を巡る争いで守屋が滅ぼされるまで続いた

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