30代・敏達天皇


三〇代/敏 達(びだつ)天皇陵
和風諡号/渟中倉太珠敷天皇 ぬなくらのふとたましきのすめらみこと
在位年/西暦五七二〜五八五
陵形/前方後円
皇居/訳語田幸玉宮(奈良県桜井市) 百済大井宮(奈良県桜井市)

所在地 河内磯長中尾陵 大阪府南河内郡太子町大字太子
最寄駅 近鉄長野線「喜志」から、金剛バス「仏眼寺橋」下車。徒歩約五分。

敏達天皇は廃仏派寄りだったらしい。崇仏派の蘇我馬子が、寺を建て仏を祭ると疫病が流行だした。それを利用した物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ仏像と仏殿を燃やさせた。その年、敏達天皇は575年8月疱瘡で崩御した。神が仏罰をこうむったのか・・・・。御陵は最寄り駅・近鉄長野線「喜志」から徒歩で約四五分と離れているので、金剛バスの利用がおススメ。歩かなかった分を御陵の周りにの古墳散策にあてるのがよい。

敏達天皇(びだつてんのう)は、日本の第30代天皇(在位:572年4月30日〈敏達天皇元年4月3日〉- 585年9月14日〈同14年8月15日〉)。
和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。「古事記」では沼名倉太珠敷命)別名、他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)。

欽明天皇と石姫皇女との間の息子である。欽明天皇は継体天皇と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)との間の息子であり、石姫皇女は宣化天皇(継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、父方・母方の双方からそれぞれ継体天皇・仁賢天皇・雄略天皇の血を引いている。
同母兄・箭田珠勝大兄皇子が欽明天皇13年(552年)4月に薨去したことを受け、同15年1月7日(554年2月24日?)に皇太子となる。
同母の兄弟姉妹として他に笠縫皇女がいる。異母の兄弟姉妹としては、用明天皇・推古天皇・桜井皇子(吉備姫王の父)・穴穂部間人皇女(用明天皇の皇后・聖徳太子の母)・崇峻天皇らがいる。
欽明天皇32年4月15日(571年5月24日)に欽明天皇が崩御したことを受け、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)即位。
敏達天皇4年1月9日(575年2月4日)に息長真手王の女、広姫を皇后としたが、広姫は同年11月に崩御。
翌同5年3月10日(576年4月23日)、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。尚、欽明天皇32年(571年)に額田部皇女を既に妃としており、皇女であるにもかかわらず何故そうでない広姫が当初皇后となったのかは不明。
なお、敏達天皇にも宝算に差違があるという説が唱えられていて、それらでは24歳、37歳、48歳、61歳の諸説があり、次の代の用明天皇と同様、正確な没年齢は不明であるが、「皇代記」等の示す48歳説が現時点で有力ではある。

敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年)に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の8月15日(585年9月14日)病が重くなり崩御。仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された。
皇太子はおらず、崩御の翌月の敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)、異母兄弟の大兄皇子が用明天皇として即位した。

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