32代・崇峻天皇


三二代/崇峻(すしゅん)天皇陵
和風諡号/泊瀬部天皇 はつせべのすめらみこと
在位年/西暦五八七〜五九二
陵形/円丘
皇居/倉梯柴垣宮(奈良県桜井市)

所在地 倉梯岡陵 奈良県桜井市大字倉橋
最寄駅 近鉄大阪線・JR桜井線「桜井」より  バス「倉橋」下車すぐ

蘇我馬子に擁立されて即位したが、後に蘇我氏との関係が怪しくなり、最後は馬子が放った暗殺者によって暗殺され、その日のうちに倉梯岡陵に葬られたと古事記に書かれている。御陵は円墳といわれているがよく判らない、拝所前には駐車場があるので車での訪問が便利。また、歩く場合は「桜井」から「多武峰街道」を通り徒歩約五〇分の歩き旅。途中「上之宮集会所」の看板がある辺りから街道の雰囲気が感じれる。

崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、日本の第32代天皇(在位:587年9月9日〈用明天皇2年8月2日 〉- 592年12月12日〈崇峻天皇5年11月3日〉)。
諱は泊瀬部(はつせべ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。漢風諡号の「崇峻天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。
日本史の中で、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。
欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の娘の小姉君で、敏達天皇・用明天皇・推古天皇の異母弟にあたる。

大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとするが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって暗殺されてしまう。その後蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。
当時、皇位を継承できる皇族は複数人いたが、泊瀬部皇子以外(用明天皇の子の厩戸皇子と、敏達天皇の子の竹田皇子・難波皇子・春日皇子)は全員が1世代下の人物であった。旧世代(今回の場合は欽明天皇の子)が残存している状態で世代交代を行うと、皇統を巡って紛争が起こりやすいため、とりあえずの応急措置として泊瀬部皇子を即位させる「世代内継承」は穏当な選択であった。

暗殺

崇峻は、欽明や敏達、用明のように、磯城嶋や磐余といった倭王権成立以来の伝統的な地ではなく、倉梯という山間部に宮を造営し、蘇我氏やマヘツキミ層と距離を取った。そして、崇峻と蘇我氏やマヘツキミ層は、いくつかの問題で分裂を招いてしまった。支配者層全体の利害を体現できず、大臣の蘇我馬子や前大后の豊御食炊屋姫尊との対立が顕在化したとき、権力基盤の弱い大王が支配者層の同意の下で殺害されるというのは、十分に起こりうる事態であった。しかもその要因は、后妃問題、宗教政策、地方支配、対外戦争も含めた外交問題のいずれか、もしくは全てであり、王権の存立の根幹に関わる問題であった可能性が高い。

1つ目の齟齬は、崇峻が大伴糠手子の娘の小手子との間に蜂子皇子をもうけたことである。後日談の中で、「蘇我嬪・河上娘」の名が見えるが、彼女が后妃記事に見えないのは、崇峻の皇子女を産んでいないか、正式な妃でなかったか、実在の人物でなかったという可能性がある。いずれにせよ、崇峻の主要な后妃が小手子であったのは確かである。大王家との身内的結合を権力の基盤の第一としていた蘇我氏にとって、崇峻が大伴氏の娘と結婚したことは権力の危機であった。蜂子皇子が皇位を継承すれば、蘇我氏は外戚の地位を確保できなくなり、大王家の嫡流が崇峻系に移ってしまう可能性があった。
2つ目の齟齬は、588年に飛鳥寺が建立されたことである。物部守屋が亡くなったとはいえ、いまだ仏教が全面的に受容されているとは言い難いこの時期の本格的な大伽藍寺院の建立には、賛同しない勢力も当然ながら存在したはずであり、その1人が崇峻であった可能性がある。「日本書紀」には、崇峻と仏教との関わりを示す記事は存在しない。

3つ目の齟齬は、589年に崇峻が東山道・東海道・北陸道に使者を派遣して、蝦夷国境・海浜国境・越国境を観させたという政策である。これが国造国の境界の画定を伴うものであることから、国造制の誕生を東国にもたらした契機であり、地方支配の1つの画期であったと考えられる。倭王権による地方支配が進展すれば、それを快く思わない勢力が存在したことも推察できる。

4つ目の齟齬は、591年の任那復興軍の派遣である。「日本書紀」によれば、崇峻自らが発議し、マヘツキミ層がそれに同意して、「二万余」の兵が筑紫に出陣し、新羅を問責する使者が発遣された。崇峻としてみれば、欽明以来の悲願を自分の代に一気に解決しようとしたのであろうが、隋の中国統一という国際情勢の中では時代にそぐわない政策であり、これに反対する勢力も存在したと考える。

592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。天皇が暗殺されたのは、確定している例では唯一である[注 2]。崩御した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにもかかわらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。
天皇の暗殺により、蘇我氏はさらに権力を掌握していくこととなる。複数の男子の皇位継承者がいる中で一番年長の押坂彦人大兄皇子の生母(広姫)は蘇我氏出身ではなかったこと、蘇我氏と皇室との間で政治的対立を避け融和を図る為にも、崇峻天皇の異母姉にあたりかつ生母が同じく蘇我氏出身である母方の従姉にあたる推古天皇が、日本史上初の女性天皇として即位することとなった。

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