37代・斉明天皇
三五代/皇極(こうぎょく)天皇陵
三七代/斉明(さいめい)天皇陵
和風諡号/天豊財重日足姫天皇 あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと
在位年/西暦六四二〜六四五(皇極) 西暦六五五〜六六一(斉明)
陵形/円丘
皇居/飛鳥川原宮・斉明(奈良県高市郡) 朝倉橘広庭宮・斉明(福岡県朝倉市) 御陵山
所在地 越智崗上陵 奈良県高市郡高取町大字車木
最寄駅 JR和歌山線「掖上」より徒歩約一二分(一km)。
皇極・斉明天皇と娘の間人皇女の陵墓といわれている、石段を登った丘の上にある。孫娘の大田皇女の墓も近くにあり、女系三代が眠りについている丘だ。斉明天皇時代には百済救援軍を朝鮮に派遣するため、指揮のため九州まで行くのだが戦う前にして「朝倉宮」で世を去り、こちらの陵墓へ葬られたとされている。 だが、恵蘇八幡宮本殿裏に円墳があり、これを朝倉宮で崩御した斉明天皇を仮に葬った陵墓とする伝承もあるのだ。
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。
茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。敏達天皇の皇曾孫にあたる。
はじめ高向王(用明天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。
後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。
皇極天皇としての即位
舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、推古天皇の時と同様、中継する女帝として皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。
同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。これが記紀上初の相撲節会の記述となる。
同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします大王」と呼ばれた。
同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。
9月19日に宮室を造ることを命じる。
同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。
皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。
11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。
その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の譲位(退位)とされる。
新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた
孝徳天皇の時代
白雉2年3月15日(651年4月10日) - 十師たちを呼んで設斎。
白雉4年(653年)、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。
白雉5年10月1日(654年11月15日)、中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に行幸。
10月10日、孝徳天皇が崩御。12月8日に大坂磯長陵に葬り、行宮に戻る。
重祚
孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、運河である「狂心渠」を作るなど、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。
斉明天皇元年には、高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。
有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。なお、研究者の中には、これらの工事を飛鳥盆地とその周辺を宮都として整備する構想の一環であったとする見解もある。
朝鮮半島への軍事介入
在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。
遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。
斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。
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