記述無

大友皇子 弘文天皇

 

日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とある。

父・天智天皇(天智7年・668年即位)のもとで天智10年(671年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。

『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った」とある。

天智天皇10年12月3日(672年1月7日)の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため歴代天皇とみなされてはいなかったが、明治3年(1870年)になって弘文天皇と追号された。

inserted by FC2 system