40代・天武天皇


四〇代/天武(てんむ)天皇陵
和風諡号/天渟中原瀛真人天皇 あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと
在位年/西暦六七三〜六八六
陵形/円丘
合葬/四一代持統天皇と合葬
皇居/飛鳥浄御原宮 ※三四代舒明天皇 飛鳥岡本宮と同宮(奈良県高市郡)

所在地 檜隈大内陵 奈良県高市郡明日香村大字野口
最寄駅 近鉄吉野線「飛鳥」より徒歩約一六分

この御陵には、四〇代天武天皇と皇后だった四一代持統天皇が合葬されている。御陵の墳形は八角形・五段築成とされている、内部は二室あり、天武天皇の棺と火葬された持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている。西暦一二三五年(文暦二年)に盗掘にあい、副葬品が奪われ、その上、棺から遺骨を出し石室内に散乱していたと伝えられている。
天武天皇は『日本書紀』と『古事記』の編纂を始めさせ、また「天皇」を称号にし、「日本」を国号とした天皇とも言われる。

天武天皇(てんむてんのう)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。
諱は大海人(おおあま)。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇。壬申の乱に勝利して即位した。

舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子と間人皇女にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の?野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の崩御後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。
その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。
日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。
文化的には白鳳文化の時代である。

人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、天武天皇自らは他の皇族に政治に口出しをさせず、専制君主として君臨した。
八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。
飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、崩御後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。
「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。

天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。
前後の天皇では、推古天皇につき死亡時の年齢を記したこと、天智天皇につき舒明天皇13年(641年)時点での年齢を記したことが、むしろ例外的である。
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である。
鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。
これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた。

天智天皇の大皇弟

母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。
天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。
天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。
7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。
このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟、東宮太皇弟、東宮 などと記される。
書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。皇位継承者と認定されていたかはともかく、大海人皇子が非常に重要な地位にあったことは認められている。
天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。

壬申の乱

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
吉野では?野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女孺とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が崩御すると、大友皇子が朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。
美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海(尾張など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

天皇の治世

天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。
2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、?野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。
皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。
天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。
天武天皇4年(675年)4月17日、最初の「肉食禁止令」を発布する。これにより、表向きには獣肉を食べることが不可能となった。
天武天皇5年(676年)5月7日には下野国司が「百姓が凶作のため飢えたので、子供を売りたい」と申し出があったが朝廷は許さなかった。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。
天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。
7月20日に元号を定めて朱鳥とした。合わせて、宮殿の名前も「飛鳥浄御原宮」と命名した。朱鳥は道教の発想で生命を充実させ、衰えた生命を蘇らせる存在とされている。また、浄御原という宮名も病魔を祓い浄めることを願ったものであるとされている。いずれも、天皇の病気平癒の願いを込めた応急措置的な発想であったと考えられている。その後も神仏に祈らせたが、9月9日に崩御した。

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