奈保山東陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は、山形。
崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。
陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。
遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。
文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年(1896年)に藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を建造し、かたわらに建立した。









