50代・桓武天皇


五〇代/桓武(かんむ)天皇陵
和風諡号/日本根子皇統弥照尊 やまとねこすめろぎいやてりのみこと
在位年/西暦七八一〜八〇六
陵形/円丘
皇居/長岡宮(京都府向日市) 平安京(京都市上京区)

所在地 柏原陵 京都市伏見区桃山町永井久太郎
最寄駅 京阪本線「丹波橋」、近鉄京都線「近鉄丹波橋」から、徒歩約15分。

桓武天皇(かんむてんのう)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまべ)。

平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔て即位した初めての天皇である。現代の皇室及び桓武平氏の祖。

白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。
生母は百済系諸蕃氏族の和氏の出身である和新笠(のちに高野新笠)。
当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。

父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。
しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子の他戸親王の母である皇后の井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、宝亀4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。
その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。なお井上内親王と他戸親王は同日に同じ幽閉先で逝去したが、他戸親王の実姉(桓武天皇の異母妹にあたる)の酒人内親王を妃として、朝原内親王を儲けた。

天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日に即位の詔を宣した。
延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。
百川の娘で良継の外孫でもあった夫人の藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。

右大臣に藤原是公を、中納言に藤原種継を抜擢し、これに大納言の藤原継縄(是公没後に右大臣)を加えた3名が特に重用され、前期の治世を支えた。
延暦4年(785年)9月24〜28日に早良親王を内裏に幽閉し藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、早良親王が桓武天皇のいかなる逆鱗にも怯えないと決意し絶食して配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。
同年11月10日、交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、天を祀る郊祀を行った。

延暦6年(787年)11月5日に、交野柏原において、2度目の郊祀を行った。
延暦10年(791年)、藤原乙牟漏の亡きあとに神野親王(嵯峨天皇)の乳母を務めた大秦公忌寸浜刀自女に賀美能宿禰の姓を贈る(続日本紀)。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。
初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。

軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。
ただし、健児導入の目的について、紀古佐美の遠征軍が騎馬を巧みとする蝦夷に太刀打ちできなかったために、従来の中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備を念頭に置いて編成された農民を徴集した歩兵に代わって対蝦夷戦争に対応した騎兵の確保を目指した軍制改革であったとする新説も出されている。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。
井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて延暦19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、地方行政を監査する勘解由使の設置など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

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