55代・文徳天皇



五五代/文徳(もんとく)天皇陵
諱/道康 みちやす
在位年/西暦八五〇〜八五八
陵形/円丘
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 田邑陵 京都府京都市右京区太秦三尾町
最寄駅 JR山陰本線・嵯峨野線「太秦」から、約1,1km・徒歩約14分。

文徳天皇(もんとくてんのう)は、日本の第55代天皇(在位:850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。
仁明天皇の第一皇子。母は左大臣の藤原冬嗣の娘の順子。

承和9年(842年)、承和の変で皇太子の恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父の藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。

こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。
文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘の明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、後の清和天皇)を産んだ。
惟仁親王は11月に、生後8カ月で3人の兄を押しのけ立太子した。
天皇は更衣の紀静子所生の第一皇子の惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。
しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。
また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。
9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。

やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣の源信の諫言で取り止めとなった。
かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。宝算32。通説では死因は脳卒中といわれている。

六国史の第五として文徳一代の治世を記録した『日本文徳天皇実録』(通称「文徳実録」)が編纂されている。

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