76代・近衛天皇


七六代/近衛(このえ)天皇陵
諱/躰仁 なりひと 
在位年/西暦一一四一〜一一五五
陵形/多宝塔 
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮

所在地 安楽寿院南陵 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町
最寄駅 近鉄京都線「竹田」下車、徒歩約550m・約7分。

御陵は、鳥羽法皇が皇后の藤原得子(美福門院)の墓所・三重塔として建てたものだったが、皇后の遺言通りに遺骨は高野山に納められた。からの三重塔に(何も納められていない)、崩御より8年後(1163年)近衛天皇の遺骨をここに移した。
当初は三重塔であったが、1596年の慶長伏見地震の被害で倒壊、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された。形式では「多宝塔」で、これは歴代天皇陵では唯一である。

近衛天皇(このえてんのう)は、日本の第76代天皇(在位: 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉)。諱は躰仁(なりひと)。
鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。

治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳5か月)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
久安6年(1150年)1月4日、12歳で元服。同月10日、内覧・藤原頼長の養女の多子(11歳)が入内、19日に女御となり、3月14日に立后、皇后となった。しかし、4月21日に関白・藤原忠通の養女の呈子(20歳)も入内して、6月22日に立后、中宮となる。呈子は美福門院の養女ともなっていたので、美福門院は呈子の早期出産を期待していた。
仁平2年(1152年)に呈子は懐妊の兆候を見せ内裏を退出するが、これは周囲の期待に促された想像妊娠であったらしく、出産予定の翌年3月をはるかに過ぎても何の気配もなかった。
仁平3年(1153年)、15歳の近衛天皇はこの頃から著しく病気がちであり、同年には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げたという。ところが、当時は近衛天皇に面会できたのは忠通らごくわずかで面会が出来なかった鳥羽法皇は忠通が嘘をついていると考えていた。病弱な上に17歳で早世したため結局、皇子女は生まれなかった。
久寿2年(1155年)7月23日、御所としていた近衛殿において崩御。その夜、後継天皇を決める議定が開かれ、崇徳上皇の皇子で美福門院の養子でもある重仁親王が有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)が即位することになった。
鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。
近衛天皇の健康情報は忠通が独占していたために数年前からの健康悪化は知られておらず、近衛天皇の崩御は左大臣・藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れた。
口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが朕を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため朕は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べたので、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。

inserted by FC2 system