79代・六條天皇
七九代/六条(ろくじょう)天皇陵
諱/順仁 のぶひと
在位年/西暦一一六五〜一一六八
陵形/円丘
皇居/平安京(京都市上京区)※五〇〜八〇代まで同宮
所在地 清閑寺陵 ・後清閑寺陵 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
最寄駅 京阪本線「清水五条」下車、徒歩約2km・約30分
後白河法皇(上皇)の命により、78代・二条天皇は譲位し、僅か1歳の息子・六条天皇が歴代最年少での天皇となった。即位の翌日に父の先帝二条天皇が無くなり、二条派の後ろ盾をなくし、祖父・後白河法皇(上皇)の院政支配に翻弄されていく。
一方、平家一門から天皇を出したい平清盛、院政を強固なものにしたい後白河法皇(上皇)の利害が一致し、甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させる。六条天皇は、在位2年8か月で譲位して歴代最年少の上皇となり、その後、わずか13才で病に倒れ崩御した。
数え2歳(満7か月と11日)で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚した。これが歴代最年少での皇位への即位である。
その1か月後の7月27日に即位式が行われるが、途中で泣き出して中断したために、参議・中山忠親が「赤ん坊には儀式よりも乳の方が大切だ」と機転を利かせ、慌てて乳母の蔵人頭藤原邦綱女・成子が授乳してやっと落ち着かせたという。政務は外伯父の摂政近衛基実と邦綱が表向きを取り仕切った。
在位2年8か月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の上皇となった。
その後は後白河院の庇護下に置かれたが、これは六条院が反対派に擁されることを防ぎ自己の院政を安定させるための後白河院の措置だったとみられる。
その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢と言われる。后妃も子もなかった。
父の二条天皇は在世中に親政を行おうとして後白河院と対立した上、異母弟・憲仁親王の擁立を画策したとして、憲仁親王の叔父・平時忠を流罪、平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して後白河院の院政を停止させた。しかし、二条天皇を次代の治天と定めた鳥羽法皇・美福門院を喪った後、天皇の立場は極めて不安定な状況下に置かれた中で病に倒れ、母方の極めて弱い六条天皇を後継者と定めて院政を行うことも出来ないまま崩御してしまった。
加えて、二条天皇派として期待された摂政・近衛基実までも喪ったことで、父院からも摂政からも支援を受けられなくなった六条天皇は名前ばかりの存在となり、政治の実権を奪われていた後白河院が平清盛と手を結んで甥から叔父へという不自然な皇位継承を実現させた。
譲位後も、仮に皇子を儲けることが出来れば、その後の不安定な政情からその皇子が皇位継承の候補者として存在し得た可能性が高いものの、13歳の若さで崩御したことでその可能性も喪われてしまった。
