81代・安徳天皇
八一代/安 徳(あんとく)天皇陵
諱/言仁 ときひと
在位年/西暦一一八〇〜一一八五年
陵形/円丘
皇居/福原宮(神戸市兵庫区荒田町)
所在地 阿弥陀寺陵 山口県下関市阿弥陀寺町
最寄駅 山陽本線「JR下関」下車、バスで「赤間神宮前」下車、徒歩1分
祖父にあたる「平清盛」の力により、生後まもない「80代・高倉天皇」の第一皇子(母は平清盛の娘の徳子)を立太子。その約1年後、朝廷内の反感をかいつつも「81代・安徳天皇」が即位。
「平清盛」の死後、平家滅亡と共に僅か6歳で命を落とした悲劇の幼帝である。歴代の天皇の中、最も短命の上に、戦乱で落命した唯一の天皇。
また、平家一門と「都落ち」をすると、朝廷では「82代・後鳥羽天皇が即位、正史上初めて同時に2人の天皇が擁立された。
その御陵は、山口県下関市の関門海峡を目の前にした「赤間神宮」境内にある。壇ノ浦の戦いより1年後、「源頼朝」の命により「安徳天皇の怨霊」を鎮める目的のため「阿弥陀寺御影堂」が建てられた。その後にも、「安徳天皇の怨霊鎮慰」のため、木彫の等身大尊像が造られ本殿に収められ、現在の「赤間神宮・本宮」ご神体となっている。
安徳天皇(あんとくてんのう)は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。諱は言仁(ときひと)。歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。
高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。
治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った。摂政には藤原基通が任じられた。
即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した。
大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた。
寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする。
寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年(1184年)7月28日に即位。
正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。
安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠及び其の附近なるべし」としている。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。
源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平家は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。
寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る。
この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。
『平家物語』「先帝身投」の描写では、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている。
神器の宝剣はこの時失われたとする説がある。原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している。その後、後鳥羽〜土御門天皇〜順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした。
