82代・後鳥羽天皇
八二代/後 鳥 羽(ごとば)天皇陵
諱/尊成 たかひら・たかなり
在位年/西暦一一八三〜一一九八年
陵形/十三重塔
皇居/平安京 水無瀬神宮(大阪府三島郡)
所在地 大原陵 京都府京都市左京区大原勝林院町
最寄駅 京都市営地下鉄「国際会館」下車、京都バスで「大原」下車、徒歩10分
80代・高倉天皇の第四皇子。1183年に平氏が82代・安徳天皇を擁して西走した後、祖父「 後白河法皇(77代天皇)」の院政のもとで即位した、安徳天皇の異母弟に当たる後鳥羽天皇。
新古今和歌集の編纂でも知られ、文武両道といわれている。鎌倉時代の1221年(1198年、土御門天皇への譲位後)、「承久の乱」で鎌倉幕府執権の「北条義時」に敗北、隠岐に配流され、1239年に都に戻る事なく同地で崩御した。
その御陵は京都市左京区大原勝林院町にある「大原陵」に治定されている。宮内庁上の形式は石造十三重塔。また、島根県隠岐郡に火葬塚がある。遺骨は火葬塚に納められたが、明治6年に明治天皇の命により大阪の水無瀬神宮に合祀された。
その他、広島県三次市「天皇山」と呼ばれる山があり、佐賀県神埼市脊振町にも後鳥羽院御陵と呼ばれる陵が存在している。後鳥羽伝説が西日本に多く残っている。
神器なき即位
寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。
尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・藤原範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。
事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある。
これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。
この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。
8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。
法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している。
10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。
新帝の候補者としては義仲が北陸宮を推挙していたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。
これは丹後局の進言を容れたものだという。安徳天皇の異母弟のうち、尊成の同母兄でもある守貞親王は乳母が平知盛正室の治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている。
8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し(後鳥羽天皇)、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われた。
即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、やはり剣璽なきまま行われた。
安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われた。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。
そして承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととした。それでも2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使の藤原秀能を今一度西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。
皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽は、このことが耐えがたいコンプレックスとなって苛まされ続けたであろうことは想像に難くない。
また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった。後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の崩御後は関白・九条兼実が朝廷を主導した。
兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。
これは土御門通親や丹後局の策謀によるともいわれる。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ、宮中から追われた(建久七年の政変)。
この政変には頼朝の同意があったともいう。また兼実の過度な権勢や院近臣家出身の国母七条院(藤原殖子)に対する無礼などが後鳥羽天皇の怒りと不信を招いた面もあったとみられる。
院政
建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷く。
上皇になると通親をも抑え、殿上人を整理して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199年)の頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じた。
建仁元年(1201年)に京で挙兵した城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、逆に幕府の要求により長茂追討宣旨を下している(建仁の乱)。
建仁2年(1202年)に兼実が出家し、通親が急死した。既に後白河法皇・頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。翌年の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している。
また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」と評している。
建仁3年(1203年)に比企能員の変で将軍源頼家が失脚し、幕府が頼家は死去したと偽って弟千幡の将軍就任を要請してくるとそれを認め、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定めた。
後に頼家は存命であることがわかるが不問に付しており、幕府の実権を握る北条時政と友好関係を築いて、京都守護として上洛した時政の娘婿の平賀朝雅を厚遇し、元久元年(1204年)に伊勢国・伊賀国で起こった三日平氏の乱平定の命を受けた朝雅を伊賀国知行国主に任じている。さらに朝雅を院の殿上人として重用した。
元久2年(1205年)に幕府で牧氏事件が起こり時政が失脚すると、幕府の実権を握った北条政子・義時姉弟からの命令で朝雅は在京御家人に追討された。寵愛する朝雅が幕府側の事情で討たれたことに衝撃を受けた上皇は、それを機にそれまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置して独自の武力を編成することを企図し始めたとする説がある。
建永元年(1206年)、上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の遵西・住蓮の東山鹿ヶ谷草庵で念仏法会に参加し出家して尼僧となった。この事件に怒った上皇は、承元元年(1207年)に専修念仏を停止して法然・親鸞らを配流している(承元の法難)。
牧氏事件の後は実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図った。実朝は上皇の従妹でもある上皇の寵臣坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えており、上皇もまた信清の娘坊門局を后妃の1人としていたため、上皇と実朝は合婿の義兄弟関係となっていた。実朝自身も上皇を敬愛する人物だったため、朝幕関係は一時安定期を迎える。
やがて幕府は子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる親王将軍の構想を打ち出したが、建保7年(1219年)に実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、親王将軍も上皇は拒絶した。
『愚管抄』では上皇は日本を2つに割ることになると危惧したとしている。幕府は重ねて親王の下向を要請したが、それに対して上皇は寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求した。幕府はこれを拒否して、北条時房に千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、上皇も幕府も態度が強硬で交渉は不調に終わった。ただし上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく親王将軍をあきらめ、頼朝の妹の曾孫にあたる九条道家の子である三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。
三寅が鎌倉に下向して間もなく大内守護である源頼茂が上皇の命を受けた在京武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って自害を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。この原因については、頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからとする説、後鳥羽院政下における廷臣同士の権力闘争が原因とする説など諸説ある。
上皇は堀川通具を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。だが、それに対する反発は予想以上に強く、公家・武家・寺社を問わず何らかの理由を付けて賦課を拒否する者が続出した。この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった。なお、翌年の承久の乱に関係するのか前年に藤原定家への勅勘があり、また前年から当年にかけて熊野詣をしており、摂津の南境の止止呂支比売命神社西北に行宮跡が残されている。
承久の乱
承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の官宣旨と院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。
わずか2か月あと7月13日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。
父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。
これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。
さらに、在位わずか3か月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、替わって後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子である茂仁王が皇位に即き(後堀河天皇)、皇位を践んでいない行助入道親王が法皇として治天として院政を執ることになった(後高倉院)。
後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。
四条天皇の御代の延応元年(1239年)2月22日、配所にて崩御した。宝算60。
同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなった。ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もある。
後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。
御所焼・菊紋
刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。皇室の菊紋のはじまりである。