87代・四條天皇
八七代/四条(しじょう)天皇陵
諱/秀仁 みつひと
在位年/西暦一二三二〜一二四二年
陵形/九重塔
皇居/平安京
所在地 月輪陵 京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
最寄駅 JR・京阪本線「東福寺」下車、約1,5km、徒歩約25分。
四条天皇(しじょうてんのう)は、日本の第87代天皇(在位:1232年11月17日〈貞永元年10月4日〉- 1242年2月10日〈仁治3年1月9日〉)。諱は秀仁(みつひと)。
後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・九条シュン子(藻璧門院)。
寛喜3年(1231年)2月12日に一条室町邸で誕生。同年4月11日に親王となり、10月28日に後堀河天皇の皇太子に立てられる。
貞永元年(1232年)10月4日父天皇の譲位に伴って2歳で践祚、12月5日に即位。
仁治2年(1241年)1月5日に元服し、12月13日に九条彦子を納れて女御としたが、不慮の事故により、翌仁治3年(1242年)1月9日に崩御。宝算12。
同月19日に四条院と追号された。わずか12歳で崩御したため、皇子女はない。
天皇は幼少であり、初めは父である後堀河上皇が院政を敷いた。
だが、翌天福元年(1233年)に母の藻璧門院が、同2年(1234年)には父の上皇も崩御した。
このため、外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上の政務を行っていた。
また、生前の上皇の意向に従って、天皇は宣陽門院(後白河法皇の娘で、天皇には曾祖父の異母妹)の猶子となり、更に彼女の養女で後堀河上皇の中宮でもあった近衛長子(鷹司院)を准母に迎えさせて母親代わりとした。また、上皇の実姉であった利子内親王(式乾門院)も天皇の准母となった。
彗星に祟られるが、備中国宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により快癒し、同寺は勅願寺となる。
崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石の粉を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。
突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊や慈円の祟りによるものとの噂が立った。
転倒した経緯から、その死因を脳挫傷とする臆説もある。
九条忠家とは同年配で、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕をともに過ごしていた。
四条天皇自身も実際はかなりの悪戯好きだったようで、滑石を撒いたのもその一環だった。
父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、皇子もいなかった四条天皇の崩御により、守貞親王(後高倉院)の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えた。
やむなく後鳥羽上皇の血統から次代を選ぶこととなり、九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王を推したのに対し、幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を推し、このやりとりの末、11日間の空位期間が発生した(仁治三年の政変)。
天皇空位は称徳天皇から光仁天皇に至る神護景雲4年(770年)の55日間以来472年ぶりで、以後は称光天皇から後花園天皇に至る正長元年(1428年)の7日間まで186年間起こらなかった。
なお、泉涌寺を再興した俊?を天皇の前生とする説があり、その理由の一つとして、天皇が俊?と同じく大根を好んで食べたということが伝えられている。
