15代・応神天皇・讃


一五代/応神(おうじん)天皇陵
和風諡号/誉田天皇 ほむたのすめらみこと
在位年/西暦二七〇〜三一〇
陵形/前方後円
皇居/軽島豊明宮跡(奈良県) 難波大隅宮(大阪府) 葉田葦守宮跡(岡山県) 

所在地 惠我藻伏崗陵 大阪府羽曳野市誉田六丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「道明寺」から徒歩約一五分

鶴岡八幡宮など多くの八幡神社に御祭神として祀られているのが、神功皇后の御子である応神天皇。 その御陵は墳丘長四二五m(後円部直径二五〇m・高さ三五m、前方部幅三〇〇m・高さ三六m)で、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ国内第2位の古墳(前方後円墳)となっている。また、体積の143万3960立方メートルは日本一。

仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に?坂皇子と忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷または筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年に生まれたとされる
応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が崩御した翌年に即位。
即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。
即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。
即位19年10月、吉野へ行幸。国樔人は白樫で横臼を作って大御酒を醸した。その大御酒をたてまつる時、口鼓を撃って演じ歌を詠んだ。
『橿の生に 横臼を作り 横臼に醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父』
吉野は山深い土地であり、日本書紀が書かれた奈良時代初頭でも吉野の人々が来朝することはまれであった。しかし時折、名産品を献上するときがあり、国主らはその際にこの歌を詠んだという。
即位22年春3月5日、難波の大隅宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ。
『淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの』
秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。また織部(はとりべ)が兄媛に与えられた。
即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。
即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。
即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩御したとされる。

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