17代・履中天皇・讃


一七代/履中(りちゅう)天皇陵
和風諡号/去来穂別天皇 いざほわけすめらみこと
在位年/西暦四〇〇〜四〇五
陵形/前方後円
皇居/磐余稚桜宮跡(奈良県) 

所在地 百舌鳥耳原南陵 大阪府堺市西区石津ヶ丘
最寄駅 JR阪和線「上野芝」から徒歩約五分

履中天皇(りちゅうてんのう)は、日本の第17代天皇。『日本書紀』での名は去来穂別天皇。仁徳天皇の嫡子。
5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第一皇子。母は葛城襲津彦の女の磐之媛(いわのひめ)。住吉仲皇子、瑞歯別天皇(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年1月、大鷦鷯天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、翌年2月に即位して黒媛を立后。皇后との間には億計天皇(仁賢天皇)と弘計天皇(顕宗天皇)の父である磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得た。その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、即位6年3月に病気のため磐余稚桜宮で崩御。『日本書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。『古事記』は壬申年1月3日に崩御したとする。跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。

『日本書紀』『古事記』によると大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の崩御直後、黒媛に使者として遣わした弟の住吉仲皇子が自分こそ太子の去来穂別だと偽って黒姫を奪う事件が起きた。これが知られた住吉仲皇子は反乱を起こして去来穂別の宮殿に火を放った。太子は難波宮で酒に酔って寝ており、部下に馬にやっと乗せて貰ったとされる。太子は難波宮から大和へ向かい石上神宮へ入った。逃走の途中で霊験あらたかな少女に会い、伏兵が居るので遠回りするよう教えられた。そして無事到着した石上神宮で歌を詠んだ。
『 大坂に 遇うや嬢子を 道問へば 直には告らず 当岐麻路を告る 』
(おおさかに あうやおとめを みちとへば ただにはのらず たぎまじをのる)
埴生坂(現・大阪府羽曳野市野々上)で太子が目を覚まし、飛鳥山口(現・大阪府羽曳野市飛鳥)で少女と出会っていることから、太子一行は後世の竹内街道を東進している。この先、二上山の南麓ルートと北麓ルートに分かれる。石上神宮へ急ぐ太子一行は北麓ルートの穴虫峠越えを選択しようとしているので、少女はそちらには伏兵がいるから南麓ルートの竹内峠越えで当麻へ回った方がいいと教えたことになる。穴虫峠の標高140mに対して、竹内峠は標高286mと高く、さらに南へ2倍も遠回りすることになったが、結果的にこれが太子一行を救った。
その後、住吉仲皇子は瑞歯別皇子(後の反正天皇)に誅され、去来穂別は翌年に即位した。
即位2年、磐余に遷都。蘇我満智(まち)・物部伊?弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
即位4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。
即位5年、筑紫に課税しようとしたことで神の祟りを受けて皇后黒媛を失う。
即位6年正月、蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興した。『古事記』では阿知直(阿知使主)を初めて蔵官に任じたとある。
同年2月、讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される。前年の筑紫の件も含め、天皇の西方への支配が行き届いていない面が見られる。 そして間もなく崩御。跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。

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