22代・清寧天皇


二二代/清寧 (せいねい)天皇陵
和風諡号/白髪武広押国稚日本根子天皇 しらかのたけひろおしわかやまとねこのすめらみこと
在位年/西暦四八〇〜四八四
陵形/前方後円    
皇居/磐余甕栗宮(奈良県) 

所在地 河内坂門原陵 大阪府羽曳野市西浦6丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「古市」から徒歩約一八分

 清寧天皇陵は、前方部の幅が後円部の幅の約2倍あり、前方部が大きいのが特徴。  墳丘の長さ一一五m、前方部の幅一二八m・高さ十一m、後円部は直径六三m・高さ約十一mの前方後円墳。  近鉄南大阪線「古市」から西へ「竹内街道」を経由、途中に日本武尊白鳥陵沿いを通り、御陵に向かうのがおススメ。

清寧天皇(せいねいてんのう)は、日本の第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。『日本書紀』での名は白髪武広国押稚日本根子天皇。諱は白髪(しらか)。

大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。雄略天皇23年8月、大泊瀬天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。 即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とした。即位5年正月に崩御。

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