23代・顕宗天皇


二三代/顕宗(けんぞう)天皇陵
和風諡号/弘計天皇 をけのすめらみこと
在位年/西暦四八五〜四八七
陵形/前方後円
皇居/近飛鳥八釣宮(奈良県)

所在地 傍丘磐坏丘南陵 奈良県香芝市北今市
最寄駅 JR和歌山線「香芝」近鉄大阪線「下田」から徒歩約二〇分

この御陵へのアクセスは、JR和歌山線「香芝」より西へ直進で国道168号線を北に真っ直ぐ行くのがいい。拝所は住宅街の中にあり、小さめの前方後円墳なのだが分かりにくい。顕宗天皇については、幼いときに苦労した話や兄弟で天皇の地位を譲り合った美談が記紀や播磨国風土記に残されている。

顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、日本の第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。『日本書紀』での名は弘計天皇。
履中天皇の長子である市辺押磐皇子の第三子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女の?媛(はえひめ)。同母姉に飯豊女王、同母兄に億計天皇(仁賢天皇)がいる。安康天皇が暗殺されたあとの後継者争いで父が大泊瀬天皇(雄略天皇)に殺されたため、兄と共に身を隠す。
大泊瀬天皇が在位23年で崩御して子の白髪天皇(清寧天皇)が即位した際、兄と共に命がけで皇族であることを現して無事に皇子と認められる。白髪天皇が在位5年で崩御したとき太子は兄の億計皇子だったが皇位を譲られて即位。父の仇である大泊瀬天皇への復讐を試みたが兄に諫められ思いとどまった。
即位2年、天皇は父の雪辱を果たすべく大泊瀬皇子(雄略天皇)への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じた。意祁命は少し陵の傍らを掘っただけで天皇(弟)のもとに戻り「既に壊しつくした」と奏言したが、早く戻ったことを不審に思い問いただすと事実を述べた。「父王の仇を報いるために必ずその陵を破壊しつくすはずが、なぜ少し掘っただけなのか」と天皇が追及したところ、「父王の怨みをその霊に報いようと欲することは誠に道理である。しかし大泊瀬天皇は父の仇ではあっても叔父(実際は従兄弟)であり、天下を治められた天皇であるから、その陵を破壊すれば後世の人の誹謗を買うことになる。」と意祁命は答えた。その後の天皇は、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
即位3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。
『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。

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