25代・武烈天皇


二五代/武烈(ぶれつ)天皇陵
和風諡号/小泊瀬稚鷦鷯天皇 おはつせのわかさざきのすめらみこと
在位年/西暦四九八〜五〇六
陵形/山形
皇居/泊瀬列城宮(奈良県)

所在地 傍丘磐坏丘北陵 奈良県香芝市今泉
最寄駅 JR和歌山線「志都美」から徒歩約七分

謎に満ちた武烈天皇陵の御陵、多くの研究者が古墳ではないといっている。アクセスはJR和歌山線「志都美」から約七分と近い、道中はあまり見る物はないので、御陵の南側の「志都美神社」を参拝するとよい。

武烈天皇(ぶれつてんのう)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。
名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(−のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。漢風諡号である「武烈天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

日本書紀による記述
長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。訴訟の審理はまことに当を得ておられた。また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた。
「長好刑理、法令分明。日晏坐朝、幽枉必達、斷獄得情。又、頻造諸惡、不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。國?居人、咸皆震怖。」
(長刑の理を好みて、法令分明めたまふ。日の晏れて朝に坐して、幽枉必ず達して、獄を断めて情を得たまひき。又、頻りに諸悪を造し、一も善を修めず、諸酷刑、自ら見ざるは無く、国内の居人、みな震怖す。)
仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。皇太子は、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子の平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。

即位元年春三月、春日娘子を立てて皇后とした。
『日本書紀』では、武烈天皇の異常な行為を多く記している。その部分を以下に列挙する。
二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す(妊婦の腹を裂いてその胎児を見た)。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう(人の爪を抜いて、芋を掘らせた)。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ(人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった)。
五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ(人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ)。
六年の冬十月に、百済国、麻那君を遣わして調を進る。天皇、百済の年を歴りて貢職を不脩為を以ちて、留めて放たず(百済国は麻那君(まなきし)を遣わして貢物をした。天皇は百済が長い間貢物をしてなかったと責め、抑留した)。
七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ(人を木に登らせて、弓で射落として笑った)。
八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。(女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して、面前で交尾を見させた。女たちの性器を調べ、潤っている者(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった)。 また、そのころ、池を掘り庭園を作って、鳥獣をたくさん飼った。そして、狩りを好んで、犬を走らせ馬と競争させた。出廷や退廷の時間もまちまちで、大風が吹こうと激しい雨が降ろうとお構いなしだった。贅沢にあけくれ、百姓が寒さに凍えることを意に介さず、美食をして天下の飢えを顧みなかった。さかんに小人や俳優に淫靡(いんび)な音楽を奏させ、奇怪な遊びごとを設けて、淫らな音楽を好き放題におこなった。昼夜をわかたずいつも宮人と酒に酔いしれ、錦?(にしきぬいもの)を席としていた。綾と白絹を着ている者が多かった。(及是時、穿池起苑、以盛禽獸而好田獵、走狗試馬、出入不時、不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦?爲席、衣以綾?者衆。)
冬十二月に、列城宮で崩御。

古事記による記述
『日本書紀』における武烈天皇によるこれら悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られない。日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっている。
小長谷若雀命 坐長谷之列木宮 治天下捌?也 此天皇 无太子 故 爲御子代 定小長谷部也 御陵在片岡之石坏岡也。(小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷之列木宮で、8年間天下を治めた。天皇には子供が居なかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡之石坏岡にある。)
天皇既崩 無可知日續之王 故 品太天皇五世之孫 袁本杼命 自近淡海國 令上坐而 合於手白髮命 授奉天下也。(天皇が崩御したが、次の日継の王が見つからなかった。それで、品太天皇(応神天皇)の5世の孫、袁本杼命(継体天皇)を近淡海国(近江)から呼び、手白髮命(手白香皇女)を娶らせ、天下を授けた。)

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