26代・継体天皇
二六代/継体(けいたい)天皇陵
和風諡号/男大迹天皇 をほどのすめらみこと
在位年/西暦五〇七〜五三一
陵形/前方後円
皇居/樟葉宮(大阪府) 筒城宮(京都府) 弟国宮(京都府) 磐余玉穂宮(奈良県)
所在地 三嶋藍野陵 大阪府茨木市太田3丁目
最寄駅 JR京都線「摂津富田」、阪急京都線「富田」から、徒歩約三〇分
継体天皇陵は、隣の高槻市の今城塚古墳が真の継体天皇陵と言われているが、宮内庁が治定しているのは「太田茶臼山古墳」。全長二二六m、前方部長さ一一七m、前方部幅一四七m、後円部径一三八m、高さ約二〇mで、前方部と後円部が接するところに造り出しのある立派な古墳。
継体天皇(けいたいてんのう、旧字体:繼體天皇)は、日本の第26代天皇(在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。
元の名はヲホドノオウ。漢字では、男大迹王や乎富等王など。
『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。
記紀によれば、応神天皇5世の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村や物部麁鹿火などの推戴を受けて即位したとしている。先帝とは4親等以上離れている。
継体天皇は、前代の武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が間違いないとされる天皇である。 これ以降の天皇の系譜では、実在性が疑われる人物がおらず、継体天皇からほぼ間違いなく現在の皇室まで繋がっているとされている。
記紀は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも記している。『日本書紀』によれば、450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。記紀が伝える男大迹王の記録は、出生から幼少の頃、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細にあるが、次の記録は57歳の頃になっており、その約50年間の男大迹王及び振媛の記録はない。
男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江にも行き来していたか、近江を拠点にしていた可能性もある。その根拠として水谷千秋は『日本書紀』では、越前から迎えたとあるが、『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している。
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)」と言い、群臣は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという。その後も、男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とした。継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている。 その後19年間は大倭入りせず、511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の没年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、継体6年(512年)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。
継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇や宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。