志賀高穴穂宮趾
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御陵
狹城盾列池後陵
御陵周辺
皇居
志賀高穴穂宮
日本書紀記述
日本書紀原文
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志賀高穴穂宮跡・高穴穂神社
地図(google map)
若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂宮(タカアナホノミヤ)に坐して天の下治らしめしき。(古事記に因る、日本書紀に記述無)
この天皇、穂積臣等の祖 建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)の女、名は弟財郎女(オトタカラノイラツメ)を娶して生みましし御子、和訶奴気王(ワカヌケノミコ)。一柱。(古事記に因る、日本書紀に記述無)
皇后・弟財郎女は弟橘媛(日本武尊の妃)と姉妹で、父・建忍山垂根は大水口宿禰の子であるとされている。
大水口宿禰の記述は日本書紀・崇神天皇七年秋八月の条、又、垂仁天皇二十五年三月の条にある。伊香賀色雄の子とも、神饒速日命(神武東征の際の大和の豪族・長髄彦が奉じる神)の六世とも伝える
一柱・和訶奴気王についての詳細は無い
所在地・穴太は延暦寺や日吉神社の門前町で栄えた坂本に近く、『延喜式』によれば、駅伝制の穴太駅が置かれ、駅馬五頭が割り振られた。
所在地・穴太は穴太衆が定住した事でも知られる、もともと穴太古墳群が在り野面積みに似た構架法が存在していた、これは朝鮮半島・高句麗や百済に見られるもので、石の配置方法が穴太積みに似ていると云われる
志賀高穴穂宮跡
志賀高穴穂宮跡