14代・仲哀天皇
十四代/仲哀 (ちゅうあい)天皇陵
和風諡号/足仲彦天皇 たらしなかつひこのすめらみこと
在位年/西暦一九二〜二〇〇
陵形/前方後円
皇居/穴門豊浦宮(山口県)
所在地 惠我長野西陵 大阪府藤井寺市藤井寺四丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「藤井寺」から徒歩一二分
この御陵は「世界遺産百舌鳥・古市古墳群」の構成資産として登録されている。仲哀天皇は、九州南部の熊襲征討のため、穴門豊浦宮から進んで筑紫橿日宮に至ったが、西方の新羅国を征討せよとの神託を信じなかったため、筑紫に没したという。
御陵の近くには、藤井寺市立生涯学習センターがある。ここの二階には、藤井寺市内の遺跡から見つかった道具を展示し、旧石器時代から奈良時代までの変遷を学ぶことができる「歴史展示ゾーン」も合わせて立ち寄るのがお勧めだ。
容姿端正、身長一丈(3メートル)。『日本書紀』によれば、叔父の稚足彦天皇(成務天皇)に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。
皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇41年に30歳で死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺した。
即位2年1月11日、気長足姫尊(成務天皇40年誕生)を立后(神功皇后)。
同年2月、角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、穴門の豊浦津へ至る。
即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。
即位9年2月、急死して神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴門豊浦宮(現下関市長府)で殯された。下関市長府の日頼寺に宮内庁が管轄する「御殯斂地」がある