19代・允恭天皇・済
一九代/允恭(いんぎょう)天皇陵
和風諡号/雄朝津間稚子宿禰天皇 おあさづまわくごのすくねのすめらみこと
在位年/西暦四一二〜四五三
陵形/前方後円
皇居/遠飛鳥宮(奈良県・不確定・未訪問)
所在地 惠我長野北陵 大阪府藤井寺市惣社1丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「土師ノ里」から徒歩約九分
允恭天皇は「倭の五王」のうち「倭王済」に比定されてるが、元々病弱の身であったためか、
四二年もの御代に事績はほとんど記されていない。
古市古墳群の北東部、国府台地の北端近くに位置する前方後円墳。築造時期は5世紀後半。
駅からのアクセスも良く、拝所には駐車場もある、長尾街道を経由して御陵を一周するのもいい。
宮跡にはまだ行けていない、今後の課題を残している。
允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、日本の第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。『日本書紀』での名は雄朝津間稚子宿禰天皇。乱れた氏姓の改革を行ったと伝えられる。
5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子。母は葛城襲津彦の女の磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)、瑞歯別天皇(反正天皇)の同母弟である。
瑞歯別天皇が即位5年1月に皇太子を定めずして崩御したため、群臣の相談により天皇(大王)に推挙された。病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、翌年12月に妻の忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
即位3年1月、新羅に腕の良い医者を求める。同年8月、医者が来朝して天皇の病気をたちどころに治した。『古事記』によると新羅から貢物を運んできた金 波鎭漢 紀武(こむ はちむかむ きむ)が大変薬に詳しい男で、この男の作った薬によって病気が治ったとされる。
即位4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。
即位5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。
即位7年12月、皇后の妹の衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買う。
即位8年2月、衣通郎姫は皇后の嫉妬を理由にさらに遠方の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移った。天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に行幸を続けた。
即位10年、皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。
即位23年、長男の木梨軽皇子を皇太子とするが、翌年に同母妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚。
即位42年1月、崩御。『古事記』では甲午年1月15日とされる。木梨軽皇子は群臣の支持を得られず粛清され、弟の穴穂皇子が即位した(安康天皇)。陵所は惠我長野北陵(市ノ山古墳)。