24代・仁賢天皇
二四代/仁 賢(にんけん)天皇陵
和風諡号/憶計天皇 おけのすめらみこと
在位年/西暦四八八〜四九八
陵形/前方後円
皇居/石上広高宮(奈良県)
所在地 埴生坂本陵 大阪府藤井寺市青山3丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「古市」から、徒歩約二五分
藤井寺市青山にある「仁賢天皇陵(ボケ山古墳)」。百舌鳥古市古墳エリアにあるのに、世界文化遺産登録リストには含まれていない。全長一二二m、高さ一三mで、六世紀前半に築造されたとされる前方後円墳。古市古墳群の中では終盤に築造された古墳。 古市駅からは少し歩くが、白鳥通りより竹内街道を散策するもよい。
仁賢天皇(にんけんてんのう)は、日本の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。『日本書紀』での名は億計天皇。諱は大脚あるいは大為。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れ、皇子と認めた。4月に億計皇子が33歳にして立太子され、皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。
3年2月に石上部(いそのかみべ)舎人を置いた
5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた
6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定める
11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正統性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后となったことで繰り返されている。