21代・雄略天皇・武
二一代/雄略(ゆうりゃく)天皇陵
和風諡号/大泊瀬幼武天皇 おおはつせわかたけのすめらみこと
在位年/西暦四五六〜四七九
陵形/円丘
皇居/泊瀬朝倉宮(奈良県)
所在地 丹比高鷲原陵 大阪府羽曳野市島泉8丁目
最寄駅 近鉄南大阪線「高鷲」から徒歩約一二分
雄略天皇陵は、円墳が少ない古市古墳群の中にあって、円墳としては最大の規模を誇っている。この御陵の最も大きな特徴は、直径七五mの円墳と、その東側にある島泉平塚古墳という一辺五〇mの方墳の二つの古墳を一つとして治定してること。
雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう)は、日本の第21代天皇(在位:456年?〈安康天皇3年11月13日〉 - 479年)。『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇。考古学的に実在が実証されている古墳時代の天皇。
允恭天皇の第五皇子。母は誉田天皇(応神天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇)の同母弟。
「記紀」によれば抜群の政治的才能と軍事的センスを持つ一方、残忍・冷酷な側面を持つある種の英雄的性格を有し、大伴氏、物部氏の二氏を自身の軍事的背景として、それまでの有力豪族との連合政権的な性格をもった大和政権の体制を専制的な体制へと転換したとされる。 養蚕の推奨、新羅への出兵、宋への遣使などの政策を積極的に実施した。
兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子・星川稚宮皇子を得た。皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は叔母にあたり、間に子はない。 王位継承争いは他の時代にも見られたが王位継承のライバルとなる親族をこれほど多く次々と殺戮したことは前例にないと言われている。
即位後も当時の畿内の最有力豪族である葛城氏と同じく地方の最有力豪族である吉備氏の二大豪族とも戦いこれを降し専制王権化を強めた。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭にその名が掲げられていることから、雄略天皇の時代が歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたことが窺える。それまでの日本列島は各地の有力豪族による連合体であったが、雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方もある。
埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が『古事記』にある名称「大長谷若建」の中の「若建」(ワカタケルとしている)と『日本書紀』の名称「大泊瀬幼武」の中の「幼武」(これもワカタケルとしている)と類似しているとされていることから「考古学で存在が確認された最古の天皇」であるとされる。